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老いを受け入れること。 [うつ病関連]

今野雄二氏が自殺されたということでニュースになっていた。
私が20代のころ「11PM」などに出演していたし、
(ファッション的に)一番とんがっていたころだったので、
けっこうそのファッションにも言動にも注目していた。
享年66歳。

一般的に報道は「若年層の自殺」が問題になるが、
実際の自殺者(含未遂)として一番多いのは、
50代後半から60代の男性である。
「男の更年期」でもあるが「老化」「老後」の始まりでもある。
年齢階級別の自殺の状況

ここで思い浮かぶのは、
昨秋やはり自殺してしまった加藤和彦氏のことだ。
今野氏も加藤氏も、
どちらも生前はスタイリッシュだった。
「粋」とは違うおしゃれなスマートさだった。
「もしかしたらこういうタイプの人は、
 老いていく自分を受け入れられないのではないか。」
ふと私はそう考えていた。

加藤氏が亡くなった後、
北山修氏が追悼文に書いていたことで印象的なことがある。
それはこれから団塊の世代が「老い」を迎えるにあたって、
加藤氏の自殺を手本のようにしてはならないということだ(意訳)。
「老いる」ということは、
自らの容貌が衰えたり、
心身の能力が衰えたり、
そのために今までは一人で何でもできたことが、
「だれか」の助けをかりずには出来なくなったり、
「自分の思い通り」にならなくなることでもある。
特に完璧主義で自己愛が強いタイプであれば、
そのことを受け入れ難いに違いない。
「たかがこんなことが出来ないのか」
「つまらないことで人の手を煩わせるのはいやだ」
「若いころと違って疲れも取れないし肌もしみだらけになってきた」
そんな思いで毎日を暮らしていたら、
自らの将来(=老後)を悲観したとしても当然である。
そこで北山氏は書いている。
「老いを受け入れることは、
 誰かの力を借りて生きるのを受け入れることでもある」(意訳)
そういう意味で、
完璧主義で理想主義でスタイリッシュだった加藤氏が死を選んだことを、
この世代の「範」としては決してならないと。
「誰でも老いるものだし、
 誰かの手を借りたりすることも、
 容貌が変化していくことも恥ずかしいことではない」
そういう自分を受け入れることを今の団塊の世代にわかってほしいと。

今野氏の自殺の原因はわからないし、
明確な遺書を読んでみない限り、
どんな自殺者であってもその動機はわからない。
ただ北山氏が指摘するように、
高度成長期、終身雇用の日本で生きてきた団塊の世代が老後を迎え、
「モーレツ社員」だった人たちが、
人の力を借りたりしなければならなくなった時、
自分の衰えていく心身や容貌を目の当たりにした時、
絶望を抱いたとしても不思議ではない。
私でさえ日々衰える心身にため息が出るし、
容姿にだって様々な絶望感が去来する。
「それが当然」と思いながらも、
やはり「老化する自分」を受け入れがたい。

北山氏は以前から書いていたし話していた。
「日本人は汚いもの、醜いもの、傷ついたものを見たがらない。
 イザナギ、イザナミもそうだし、
 鶴の恩返しもそうだった。
 イザナギは黄泉の国で腐りかけたイザナミから逃げる。
 与ひょうは文字通り"我が身を削って"織物をしているつうをのぞき見して立ちすくむ。
 イザナギが醜くなったイザナミを黄泉の国から連れ帰り、
 与ひょうがつうを引きとめたなら、
 日本人のメンタリティは違っているはずだ。」
老いることは汚くなり、醜くなっていくことでもある。
その「老い」を受け入れることが、
日本人には求められることでもある。

やたらと「アンチエイジング」などといわれるが、
「素敵に歳を重ねること」と「アンチエイジング」はイコールではないと思う。
年齢に抵抗することが大切なのではなく、
年齢を巧く重ねていくことが大切なのではないか。
それが老いを受け入れるということなのではないか。
自分がこれから迎える「老い」に対して、
自分の身の回りの人たちの「老い」に対して、
今野氏の自殺はあらためて考える機会となった。
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