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表現の自由と裁量とその力について。 [うつ病関連]

7月27日の毎日新聞朝刊 シリーズ「こころを救う うつ100万人」より
(見出し)手に山盛りの薬 毎日
(本文冒頭)手のひらいっぱいに盛った薬を口に押し込み、一気に水を流し込む。そんな仕草が「気持ち悪かった」と夫が打ち明けたのは、妻(37)のうつ病が治ってからだった。(後略)

絲山秋子の日記から知った内容だ。
そりゃまぁたしかに不快だろうさ。
自分の妻が「精神病」って言うことも含めて。
処方の仕方に多少の問題があったとしても、
素人である当人にも夫にもわからないだろうし。
そのときの病態も薬の内容もわからないから、
一方的に医師の処方が過剰だとも言えないし。
ただ一般的に良心的な精神科医は、
抗うつ剤の多重服用が効果を発揮するとは信じていないけど。

でもね、
問題はそう「思っちゃった」夫でもなければ、
「処方した」医師でもなければ、
「信じて飲み続けた患者」でもなくて、
「気持ち悪い」って言葉で表現した媒体。
もしも夫がその言葉を使ったとしても、
それをそのまま垂れ流すのが、
マスメディアのやるべきことなのかしらと。

小林信彦氏がマスメディアの言葉の使い方を嘆いていたけれど、
これもそのうちの一つだと思う。
被害妄想とか拡大解釈と思われるだろうけれど、
ある意味これは言葉の暴力。
抗うつ剤や向精神薬を飲んでいる人が、
量に関わらず「そう思われている」という過剰反応をしても仕方がない。
たぶんこの記事を書いた記者はわかっていないだろうけれど、
そういう些細な表現一つから、
過剰反応する人こそが取り上げられている病気の人たちなのだから。
絲山秋子も書いているけれど、
たぶん抗がん剤とか免疫抑制剤の服用なら、
家族も記者もこんな表現しないだろうと思う。
「副作用に耐えながら服用している」みたいな、
「家族もみんなつらいけど頑張っている」みたいな?

一般的に言うなら、
精神科領域の病気に対する啓蒙が足りないから、
こういうことがまかり通るのも本当だと思うし、
さも精神病だと、
「通院して薬を飲んで治るのを待つだけ」みたいな解釈されていないか?
他の病気なら「頑張って治そうとしている」ようにみえて、
精神病なら受動的な通院と服薬だけのような解釈。
確かに今までの精神医療の在り方にも問題があるし、
うつ病の治療に関しても変わりつつあるものだし、
「理解しろ」という方にムリがあるのも承知している。
でも「気持ち悪い」って何よ?
透析が必要な患者に、
「血液を機械に通して気持ち悪い」とか言うのか?
ガンでやせ細っていく友人に向かって、
「がりがりで気持ち悪い」とか平気で言えるのか?
いや、思っても良いし言っても良いよ。
実際親しい間柄で許されるなら。
たとえ夫が本当にその言葉を口にしたとしても、
言葉を操り大衆にその記事を読ませる記者が、
それをそのまま何の工夫もせず書くことが、
当事者の患者である妻になんの影響も与えないのか。
そして記事の通りなら「100万人」いる患者のうち、
何人かでもこの記事を読んだ人間が、
その言葉に自責の念を感じたり自死に至ったりすることがあると、
ちらりとも考えなかったのだとしたら、
この新聞記事に関わった人たちは、
言葉の表現の「自由」と「裁量」と、
言葉の表現が持つ「力」について無頓着すぎる。


いくら書いてもどうせわからないんだろうな。
小さなことに過剰反応、過剰適応するからこそ、
なってしまう病気があること自体わからないだろうし。



抗うつ剤に抗不安薬に禁煙補助薬。
これだけ飲んでる私なんて、
きっと世間からはアンタッチャブルなのかもね(自爆)。
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戦うな、受け入れろ、そして自分を変えろ。 [うつ病関連]

「弱らず、逃げず、戦わず。」
「どうにもならないものを受け入れるには、
 自分の器を広げるしかない。」



わかっちゃいても、
弱る日もあるわけです。
生きてりゃ自分の思うようにならないことの方が、
もしかしたら多いくらいですから。
それがつらくないかと言えば、
端的に言ってつらいです。
キツイです。
仕事も命も投げ出したくなるくらい。
これはうつ病であろうとなかろうと、
人が生きていれば誰でもそうだと思います。
挫折も障害もない人生なんてあり得ない。
もしかしたら一生幸せな人もいるかも知れないけど、
きっとその人はそういう心構えの人なんでしょう。

うつ病の人に限らず、
病気になると「闘病」という言葉を使いますよね。
でも最近私は感じるんです。
「あ、戦おうとしなくなったな。」って。
健康だった頃は何か起こるたびにファイティングポーズをとっていたのに、
何となく適当に受け止めながら、
時間が経つと受け流している自分がいるなって。
この病気になった頃は、
生きていること自体が苦しくてつらくて、
毎日毎日弱って弱っていって、
薬を飲んで寝ることでしか逃げることもできなくて、
戦う力なんてどこにもなくて、
そんな自分が憎くて生きる価値もないと思っていました。
少しずつ回復してきたら、
今度は病気と真正面から対決して戦おうとして、
けっきょくそれは自分の内面や性格や過去と向き合うことで、
その一つ一つと戦うのではなく、
それを受け入れていく努力をすることでしか解決できないことを思い知って、
認知行動療法をすることでわかったのは、
この病気とは戦うのではなくて、
あるがままの自分を客観的に認識して、
その思考の癖に気づいて自らを変えていくこと。


考えてみれば簡単なことなのだと思うのです。
「闘病」とは言うけれど、
生活習慣病なら原因に成る生活習慣を矯正するし、
悪癖や食習慣の癖を直すわけで、
ガンならガンで、
手術でガン細胞を取り除いてもらったら、
再発を避けるための治療を受けたり体力をつける努力をするわけで、
それは「戦い」ではなくて「努力」なのだと思うのです。
その「努力」を「戦い」にたとえているだけのこと。

うつ病を患っている人のblogで、
「病気と闘っています」みたいな文章を見るけれど、
比喩とは言いながら、
その言葉を使っているうちはまずいんじゃないかな~と、
ふと思うこの頃です。
この病気は明らかな「病前性格」が存在するだけに、
(新型うつ病と言われるものは別です)
ファイティングポーズをとりたくなるのはわかるけれど、
その「病前性格」を踏まえた上で、
この病気と共存する方が得策だと考えるようになりました。
だって自分が長年培ってきた性格が引き起こした病気なら、
むしろそのことを受け入れなきゃいけないんじゃないでしょうか。
受け入れきれなくて病になって出てきたのなら、
後はもう自分という器を広げるしかないと。
そうすれば、
自然と弱ることもないし、
戦う必要もないし、
逃げる必要もない。


だから時折自分に言い聞かせます。
「戦うな、受け入れろ、そして自分を変えろ。」
「弱るな、逃げるな」はまだまだ私にはハードルが高いので、
弱りながら逃げそうになりながら、
とにかく正面切って戦わないこと、
どうせ自分の力じゃどうにもならないなら受け入れること、
そしてそれに合わせて自分を変えること、
そうやってふわふわくねくねひらひらとやっていこうかなと。
普通の人の人生なんて、
所詮小さな幸せの積み重ね。
ご飯が美味しいとか、
夕焼けがキレイだとか、
いい話が聞けたとか、
それで良いんじゃないんでしょうか。
歌の歌詞にもあったけれど、
「幸せを数えたら 片手にさえ余る
   不幸せ数えたら 両手でも足りない」
そんなものが普通の人じゃないかなぁなんて思うのです。





因みに戦わない禁煙は超楽です。
薬の力を借りているとは言え、
こんなに楽に幸せにタバコを忘れられて良いのかと思うくらいに。
これもまた、
戦わず(薬の力を借りて)、
タバコのない状態を受け入れて、
タバコを吸わない自分に変えると言うことなのです。
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少しだけ。 [うつ病関連]

先週末から落ちていたけど、
「さんま・中居の今夜も眠れない」の録画を観て、
大笑いしたら少しだけ浮上した(笑)。

人間って単純だ。
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100%の妄想。 [うつ病関連]

いよいよ押し迫って参りました。
何がって、
仕事上のいろいろな山場とタイムリミット。
同時進行で、
私の精神状態も山場とタイムリミット。
もういや。
もう限界。
疲れているから間違い連発。
これってうつ病を発症した頃とそっくり。

「他人様からお金をもらって働く以上、
 仕事を依頼されている以上、
 100%の精度がないのは人として最低。
 100%の仕事ができないなら死んでしまえ。」













閑なときには多少の間違いも、
「人間誰でも間違えるものだもんね~。」と思えるのに、
疲れてくるとどうして「100%の妄想」にとりつかれるのか。
いや、つらいッスよ。
このまんま「100%の妄想」に突っ走ってまた抑うつ状態になって、
仕事も生活も命も投げ出したら楽だろうに、
なまじ認知療法やったものだから、
それが間違った考えであることがわかっている。
それをすぐに打ち消す思考が芽生えてくる。
「狂ってしまいたい」自分と「狂うことができない」自分の板挟みですよ。
今日、今死んじゃえば、
もう何も考えなくても良いのに、
冷静に洗濯しながら明日の準備しているんですから。
不慮の事故とかで休んじゃったら楽になれるかと言えば、
けっきょく休むことに罪悪感感じて、
病院抜け出して出勤するんだろうし。
いなくたって会社も世界も何も変わらないのにね。

この時期が終われば少しは閑になるわけだし。
去年も今頃はこんなもんだったんだし。

でも立ち直るのに2ヶ月くらいかかるんだよね。
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ラジオは脳に良い。 [うつ病関連]

ちょっとした立ち読みと聞きかじりから。

ラジオという媒体は、
TVと比較してうつ病や認知症など、
脳の病気に効果があるそうな。
この手の病気で最近わかってきたのは、
脳の一部の血流が悪くなったり萎縮したり、
要するに脳に機能不全の部分があると言うこと。

ではなぜラジオが脳に良いのか?
簡単に言ってしまえば、
映像という情報がないから。
耳から得られる情報だけだから。

ちょっと詳しく言うと、
「映像で情報を与えられるのと比較して、
 音だけの情報しか与えられないと、
 情報の足りない部分(視覚的な部分)を補うために、
 脳が一生懸命に働こうとしてがんばるから。」

最近のTVに顕著なのは、
余りにも安直に何でもかんでもテロップを流すこと。
昔は音声を変えたり、
外国語だったり聞き取りにくかったりする場合だけだったのに、
今は「強調」の手法として使う。
と言うより、
安直に簡単に何でもかんでもテロップを流す。
聴いていなくてもぼーっと観ていれば、
文字で音声の情報も入ってきてしまうわけですねぇ。
何でもかんでもドラマ仕立てにして、
「話」で聴かせるのではなく、
視覚的に再現して見せてしまうので、
話から想像することが少ないのも特徴ですかねぇ。
これはちょっとした例であって、
とりあえず映像と音声という情報を与えられると、
人間の脳はほぼ満点の情報を与えられるので、
そのまま享受してしまうわけですねぇ。

その点ラジオは不自由ですねぇ。
どんなことでも言葉で表現しなければわからない。
そして聴く方も、
言葉から内容を想像して理解しなければならない。
つまり視覚的な部分を自らの脳で補完するわけですねぇ。
そのことが脳の機能不全を抱える人には、
非常に効果的であるとのこと。
一生懸命脳が活動しようとするので、
血流が良くなったり機能が回復したりするそうな。

もちろんこれは映像メディアを否定するものではないし、
ラジオを聴いたから認知症が治るとか、
うつ病が治るとか、
頭が良くなるという話では決してなくて。
ただ不完全な情報を与えられることで、
人間の脳はがんばって知ろう理解しようとするもの、
そういうお話でありまして。


この話、
個人的にもものすごく納得しますよ。
逆に言えば、
抑うつ状態にあるときは、
TVって情報過多で苦しいんです。
情報を全部理解する力がなくなっているんでしょうね。
私個人はラジオのPod Castsを聴き始めてから、
AMラジオに興味を持ち始めて、
TVよりも自由な内容の話の魅力や、
音と会話から想像をかき立てられる面白さに目覚めたわけで。
これがうつ病の療養期間から現在まで続いていて、
今じゃTVよりもラジオをPod Castsに触れている時間の方が長い始末。
で、ちょっと思い出したのが野球中継とサッカー中継。
これをラジオで聴くのとTVで観るのとでは大違い。
なぜって、
TVなら全部がみえちゃうから漫然と観ていても情報が入ってくる。
だけどラジオは映像がないから、
アナウンサーの一言一句が頼みの綱。
そしてその言葉から情景を想像して自分の脳内で再生する。
なんか今更にして思うのが、
ラジオでスポーツ中継聴いている方が興奮するし、
臨場感があったかもって。
あくまでも「個人的に」ですけどねぇ。

でも、あくまでも「個人的に」、
Pod Castsやラジオで聴いた内容から興味を持って、
DVD借りたり音楽聴いたり本買ったりしたことも確かで、
最近じゃTVからの情報よりも、
確実に音声からの情報で新しいものに手を出しますね。
と言うか、
興味をかき立てられるんですよ。
ええ、おかげで最近小林信彦にはまっているし、
新刊本を買うことも増えちゃいましたけど。

TVとラジオというメディア自体がもつ内容も違うんだろうけど、
「想像力」「情報の補完」を脳にさせること、
この点においては、
確実にラジオに分があると思われるし、
実際一部の医師などもそのようにおっしゃっていると。
まぁそんなこぼれ話でございます。









思えば、
今の直接的映像で飛び込んでくるエロよりも、
「オールナイトニッポン」の笑福亭鶴光のエロ話の方が、
よほどエロかったと思ってしまうしょうがないヤツσ( ̄∇ ̄;)。
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うつ病予防に効果的。 [うつ病関連]

昨日の朝、
ラジオで仕入れた情報。

一日5分、
緑のある公園などで運動するだけで、
うつ病の予防になるという研究結果があるそうで。
もちろん5分以上の運動はそれなりに効果はあるけれど、
意外なことに5分の運動とそれほど差がなかったと言うことでして。
「運動」とは散歩でも簡単な体操でもOK。

自宅療養していた当時、
毎日毎日散歩しながら緑を眺めていたなぁ。
写真に撮る楽しみだけじゃなくて、
空や緑や花を見ることでずいぶん効果があったんだろうなぁ。

で、ふと考えてみたら、
営業で外回りしていた頃は、
毎日外出するから四季の移り変わりを愉しんでいたし、
緑の木陰で昼寝したり(笑)、
「あ、ここに大根の花が咲いたからそろそろ春だな。」とか、
桜が地域によって盛りが違うのを愉しんだり、
「緑がキレイな季節だなぁ」とか、
「エンゼルトランペットがキレイだなぁ」とか、
毎日運転しながらそんなものばっかり見ていたっけ(笑)。
その後の会社も机が外を向いていたので、
四季の移り変わりや空の虹を見たり、
休憩室から見える外の緑がキレイだったなぁ。
その後の会社は大工場の敷地内だったから、
緑もあれば桜並木もあって良かったなぁ。
うつ病と診断される直前の会社は、
窓から緑が見えなくてつらかったっけ。
関内にあったから近場に緑の多い公園もなくて、
通勤は地下鉄だから外が見えないし、
本当にこれはつらかった。
たぶん他人には理解してもらえないだろうけど。
もう本当に二度と地下鉄通勤はしたくない。

で、今はどうかと言えば、
ほとんど毎日どこかに外出するし、
駅に近い割りには公園が多くて緑が多い環境で、
事務所のあるマンションにはハナミズキがあって、
花を愉しんで緑を愉しんで実りを愉しんで、
更に民家もあるから結構庭木があったりして。
おまけに昼休みは公園の木陰で読書。
そうか、仕事も結構向いていると思ったけど、
環境もかなり私には良い環境なんだな。


それでふと気づいた。
気づくと私って緑を探しているというか、
緑を見ているんですねぇ。
歩きながら眼が緑を探している。
花屋の前を通りかかるとついついのぞいてしまう。
最近このblogの写真も緑ばっかりだし。
クルマの写真を撮るところを探すときも、
無機物じゃなくて緑があるところを選んでいるし。

皇居の回りをジョギングする人に、
「空気の悪いところでやっても・・・」って言う人いるけど、
あれもうつ病予防、
ひいてはストレス解消なんだってことが証明された訳ですな。
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認知行動療法 [うつ病関連]

みんなの家庭の医学

昨晩のTV番組で「うつ病」を取り上げていました。
MRIで脳の状態を確認できるようになったり、
今までのような問診、カウンセリング一辺倒の、
「精神」の病としてではなく、
「脳」の病として扱っていた点に、
私は一定の評価を与えたいと思います。

最後に治療法として、
私が再三ここで訴え続けた、
「認知行動療法」が取り上げられていました。



★うつ病への新たなアプローチ「認知行動療法」とは?
こうしたうつ病患者特有の脳の状態が、画像でわかるようになったことで、岡本先生は、新たなアプローチでのうつ病治療を始めています。それが「認知行動療法」。「認知行動療法」とは、悲観的な考えに陥っている状態をカウンセリングなどを通して修正していく精神療法の一種。その考え方は、健康な人のうつ状態の予防にも応用できる可能性があるのです。通常、うつ病の状態では、前向きな考え方をしようと思っても、中々うまくいかないものです。そこでこの治療では、自分の状態を「状況」「思考」「根拠」という3つの項目に分けて整理し、考え方を修正していきます。「状況」は、嫌な出来事が起きたのはどんな時か?「思考」は、それについて、どう考えたのか?そして「根拠」は、何故その様に考えたのか?これらを順に明確にします。
例えば、うつ病を患い、掃除ができないだけで自分を責め、どうしようもなく落ち込んでしまう患者さんの場合。「状況」は「掃除ができない時」。「思考」は、「掃除ができない自分は駄目な人間だ」と思ってしまう。その「根拠」は、「普通の主婦なら掃除ができて当然だから」となります。こうして患者自身が、自分の問題を客観的に整理することで、柔軟な考えを持つ準備が出来るようになり、脳の機能も回復してくるのです。


この「認知行動療法」は、
私の体験から言っても、
確実にうつ病体質、病前性格からの脱却ができます。
そうはいっても、
「人が持って生まれた性格や思考の癖が変わるわけがない」
そういう否定的な意見が聞こえてもきます。
でも「性格とは心の癖」と考えたならば、
爪をかんだり貧乏揺すりをしたり、
そういう癖を直すことができるように、
性格だって変えることはできるんじゃないでしょうか。
根底から変えることはできなくても、
少なくともうつ病に向かいやすい思考の癖や行動の癖、
これを自ら認知して修正していくことができるはずです。

ただし、これを甘く見ると痛い目に遭います。
「状況」「思考」「根拠」をとらえるまでは良いとして、
その先の「それに変わる思考と根拠」を前向きに得られないと、
ただひたすらつらい自分の思考の癖と対峙するだけで、
余計に落ち込むだけになってしまいがちだからです。
だからこそ専門家の導きが必要です。
決して自力だけでできるものではありません。
最近は「認知行動療法」について書かれた本も多いので、
自力で試みる人も多いと思いますが、
まず抑うつ状態の極期には絶対にムリです。
できないと自分を余計に責めることになるし、
プラスの思考が浮かびにくいときにそれをすると、
却って負担になるだけで疲労はますばかりでしょう。
実際私はアルバイトを始めようとした時期、
社会復帰を始めた時期とリンクしてやりましたが、
この時期に主治医が持ち出したのはタイムリーだったと思います。
現実社会の厳しさと人とふれあうことで得られる喜びと、
いろいろな現実の出来事とリンクすることで、
「悪いことばかりじゃない」
「がんばれば認めてもらえることもある」
そういう実際の達成感とともに、
自分がネガティブにばかり考えていたほど、
現実は悪いことばかりじゃないという気持ちも持てました。
そうやって現実社会に復帰しながら、
思考の癖が修正されていくと、
「ちっちゃなことは気にしない」ってな気分にもなれたりしますから。

老婆心ながら繰り返しますが、
「認知行動療法」を自力だけでやっていくのは、
それ相応の精神力と体力が必要です。
だから不眠がひどかったり、
気分の浮き沈みが激しかったり、
朝起き上がるのも苦痛なときにやれば、
ベクトルは逆方向に働いてよりいっそうの疲労に繋がるでしょう。
全ては主治医やカウンセラーと相談して、
きちんとした指導を受けながらやることが肝要です。
私自身まだまだ社会復帰も遠い状態の時、
復帰を焦る余りに主治医に提案して拒否されました。
「今の●●さんがやるとまじめにやり過ぎてしまうから時期ではありません。」
今だからこそわかりますが、
「今の●●さんの状態でやると、
 充分な疲労回復ができていないので、
 よりいっそう消耗して逆効果になる」と言われていたのでしょう。
そして実際やってみて思うことは、
客観的に自分の「状況」「思考」「根拠」をとらえることは、
思っている以上につらく苦しく心に負担がかかります。
その上で敢えてネガティブな思考を否定して、
それに変わるポジティブな思考を考え出すことは、
心身ともに相当な負担であり消耗を強います。
「自分なり」とか「自己流」で行うことで、
「歪んだ認知」「歪んだ思考」が修正されないこともあります。
だからこそ専門家の力が必要です。

私のストレス・コーピングは、
思った通り「積極行動型」の点数が高かったです。
でも思った以上に「否認型」「回避型」の点数も高かったので、
私に必要なのは「気晴らし型」なのだと言うこともわかりました。
これは経験したからこそ、
事前に予測できたことでした。
ただ働きながら通院治療も続けている以上、
「ムリ」になることは避けるため、
「気晴らし」よりも「回避」を選ぶことも必要だったと考えています。
これは回復の過程で人それぞれだと思います。
とりあえずこれからは、
自分の精神力や体力と相談しながら、
「気晴らし」をもっと取り入れられたらと思っています。




余談ですが、
多くのうつ病患者のブログを読んできて思うこと。
前にも書いたと思いますが、
薬に頼った治療を行っている人は、
一度は復職、社会復帰しても再発している頻度が高いように見えます。
そしてブログではとても「いい人」であること。
さらには前向きに対処しようとする余り、
散歩や運動などを日課、ノルマとしてがんばってしまうこと。
健康な人だって毒を吐くし、
散歩や運動をやりたくないからやらない日もある。
そういうことは考えないのだと思います。
まじめなことも積極的なことも良いことですが、
それがうつ病の引き金になっていることに気づかないと、
そしてその加減、度合いを変えることを学ばないと、
結局元の木阿弥です。

「認知行動療法」が魔法の治療だとは言いません。
むしろこれは両刃の剣です。
つらく苦しく自らのダークサイドを知ることにもなります。
だからただメディアの情報を鵜呑みにしないで欲しいのです。
今あなたがこの療法を行うべき時なのか。
今この療法にあなたの心身は耐えられるのか。
専門家の意見を是非聞いてください。








ものすごい余談。
今話題の「新型うつ病」。
このタイプには余り有効ではない気がします。
元々のうつ病は自虐的で罪業念慮が強いのですが、
「新型」は他罰的で自分を責めることはあまりないようです。
要するにネガティブ思考と言うよりは、
「~が悪いから自分の具合が悪い」という、
むしろ「回避型」の引き籠もりに近いストレス・コーピングに思えるからです。
うつ病の方のブログを読んでいて、
会社には行かれないけれど、
食事や買い物や旅行など自分の好きなことはできるし、
会社や身近な人の不手際を異常に責める文章を読むと、
「ああ、この人は新型なんだなぁ」と思うこともあります。
他罰的な思考を修正することは必要でしょうけど、
それに従来の「認知行動療法」が当てはまるかわかりません。
こういう人が自己流でやると、
他罰的思考が増長する危険性も感じます。
「私だったらもっと巧くできる」
「私だから適当にされている」
そういう思考が増幅される可能性も感じるのです。

またも長くなってしまいました。
「認知行動療法」はとても有効な治療法です。
それは経験から間違いなくそう言えると思います。
「そんなことで治るわけがない」と思う人もいるでしょうが、
試してみるのも悪くないですよ。
ただし、絶対に専門家の指導は必要です。
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ふと気がつけば。 [うつ病関連]

寒いのである。
とにかく寒いのである。
今日は昼に霙交じりの雨になった。
信じられない。
ソメイヨシノは散ったというのに、
4月も半ばを過ぎたというのに、
今日も昨日もファンヒーターをつけている。
ダウンジャケットは全部しまってしまった(笑)。
ただひたすら重ね着でしのぐ日々である。

さて。
ふと気づけば、
今の職場で働き始めて1年半が経っていた。
2006年9月に就労不能になり、
2008年2月末にバイトを始めるまで約1年半。
それと同じ年月があっと言う間に経っていた。
思えば就労不能な時は時間の経つのが遅かった。
24時間フリーなのは、
働く人にとってはうらやましいことなのだろうが、
自分の意志とは裏腹に眠ることもできず、
働くどころか好きなことすらできず、
ただできることだけを細々とやりながら、
死なない程度に家事も日々の営みも過ごすというのは、
想像を絶するほどにつらく苦しいものである。
何よりもつらいのは、
「何をしても愉しくないこと」。
大好きな料理もできないし愉しくない。
本を読んでも頭に入ってこない。
ただバラエティ番組を観ながらそのときだけは笑って、
何とかつらさを忘れようとすることは、
他人が想像する以上につらいことである。
自分では押さえられない抑鬱感、
自殺衝動、焦燥感、神経のざわめき。
いくら薬を飲んでも楽になれない我が身をもてあます。
「死ぬよりつらい」とはあのことだ。

それがいつの間にやら、
そんな時期と同じ時間が経っていた。
相変わらず通院も服薬も続いているし、
いろいろなことで落ち込むこともあるけれど、
そして精神障害者でもあるけれど、
人並みには働いているのかもしれないと思う。
最初は4時間のバイトが限界だった。
帰宅すればただ横になるしかできなかった。
それが2ヶ月経った頃から、
帰宅してから出かける余裕が出てきて、
5時間半ぶっ通しで働けるようにもなった。
今の職場も最初は8時間が精一杯だった。
やっぱり2ヶ月が過ぎた頃、
やむを得ない理由から8時間の密度が濃くなり、
「事務所始まって以来」という忙しさに放り込まれた。
それでもそこを何とか乗り越えて、
去年の6月7月は本当に尋常じゃない働き方をしたと思う。
残業を許さないボスだから、
朝早く出勤して自分を安心させようとした。
でもそれが却ってまた良い方向に働いた。
「やればできる」。
今は定時よりも1時間早く毎日出勤している。
それは自分が安心して余裕を持って仕事ができるし、
切羽詰まってパートナーのマイペースさにイライラしなくて済むから。
そうして1年半が経っていた。

健常者なら1年半はキャリアの一部なのだろう。
だけど私には単なるリハビリと社会復帰の一部だ。
この仕事をキャリアの一部とするのなら、
本当の始まりはこれからなのだと思う。
本来なら断薬して通院も終わってこそ、
本当の始まりなのかもしれない。
何しろ私はまだ公費で医療費の一部を負担してもらっている身なのだ。
かれこれ2年も住民税を納めていないし。

生きることが当たり前の人にはわからないだろう。
うつ病患者が「普通」に生きることは難しい。
精神病患者が「普通」に回復することも難しい。
だけど私は多くの人に支えられてここまできた。
今もボスには内緒だけれど、
同僚は私が病気であることを知っている。
でもだからこそここまでこられた。
たかが1年半、されど1年半。
私が失った人としての生活と同じだけの時間、
社会で過ごせたことの意味は大きい。
親族にも友人にも同僚にも感謝したい。
そして本当に偶然ではあったけれど、
年金問題の第一人者であり、
政治家にも顔がしれている存在であるボスの下で、
多くのことを学べたことにも感謝したい。

人生には幸ばかり転がっていない。
だけど不幸ばかりでもない。
上り坂と同じ数だけ下り坂があるように、
所詮人生はプラスマイナスZEROなのだと思う。
失った1年半は大きかったけれど、
今日まで過ごした1年半は逆方向のベクトルに大きかった。
苦しくても疲れても、
自らが働いて報酬を得られると言うことは、
その金額に関わらず、
自らの存在意義を得られる希有なことでもある。
「できることがある」。
その幸せを噛みしめられるのは、
「できなかった時間がある」人間に許された至福の時かもしれない。
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寝逃げ。 [うつ病関連]

夕べは限界が限界を超えて、
本を読みたくても読めなくて、
23時前には撃沈。

いつもの土曜日と同じように、
8時に起きて1週間の買い物に出かけ、
TSUTAYA半額なので、
探してはみたものの観たいものも、
集中できそうなものも見当たらず。
昨日くらいから、
頭が朦朧としているので、
もう人として限界かと感じ取る。

15時から19時まで寝逃げ。
まさか4時間も寝るとは思わず。
活字が読めないのは危険な兆候。
映画を観る気になれないのも危険な兆候。
録画したバラエティだけが唯一の目と耳に入るもの。




診断された当時を思い出す。
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進歩がない。 [うつ病関連]

振り返ってみると、
毎年この時期は星回りが良くないのか、
大体落ち込んでいるダメダメな時期です。

去年はちょうど事故ったときで、
世間があきれるほど自虐的で露悪的で、
最悪な状態でした。

一昨年はバイトを始めたばかりの時期で、
全然頭も身体もついて行かなくて、
バイトを続けるだけで精一杯。
いつ挫けるかぎりぎりの状態でした。
ちなみにこのとき喫煙も復活しました。

その前の年は、
ちょうどこの頃から焦燥感と不眠がひどくなり始め、
3月半ばまで人生で一番ひどい精神状態でした。
人生の膿が吹き出してきたとき、
そんな感じの時期でした。


振り返ってみると、
本当に進歩がないですねぇ。
今週は本当にもうボロボロです。
疲れ果てました。
週末は雨なので引きこもることにします。
読む本もいっぱいあるし、
TSUTAYAも半額だし。
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- 人生は四十七から -