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Twitterまとめ投稿 2020/08/10 [moblog]


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「やまゆり園事件」 [電子書籍]


やまゆり園事件 (幻冬舎単行本)

やまゆり園事件 (幻冬舎単行本)

  • 作者: 神奈川新聞取材班
  • 出版社/メーカー: 幻冬舎
  • 発売日: 2020/07/21
  • メディア: Kindle版


2016年7月26日未明、神奈川県相模原市の知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、入所者19人が死亡、職員2人を含む26人が重軽傷を負った「やまゆり園事件」。
犯人は、元職員の植松聖。当時26歳。
植松死刑囚はなぜ「障害者は生きるに値しない」という考えを持つようになったのか?
「生産性」や「有用性」で人の命を値踏みする「優生思想」は、誰の心の内にも潜んでいるのではないか?
命は本当に「平等」なのか?
分断しない社会、真の「共生社会」はどうしたら実現するのか?
植松死刑囚との37回の接見ほか、地元紙記者が迷い、悩みながら懸命に取材を続けた4年間のドキュメント。

最近映画も本もドキュメントが続いて重いな。
でも仕方ない。
観たいし読みたいんだから。

私は自分自身が精神障害者だし、
母親は身体障害者だった。
その母親が今で言う毒親だったが故に、
私は自己肯定感が持てない人間に育った。
それでも若いうちはそれだけで生きる価値があった。
しかし病気をして手術をして、
自分が不完全な肉体になったことで喪失感に襲われて、
一気に負の側面が噴出してうつ病になった。
今も無理をしたときには満足感があるが、
そうじゃないと自己肯定感が薄弱なままだ。

「障がい者は生きるに値しない」

植松聖死刑囚はこの言葉をずっと言い続けている。
この本以外でもラジオ番組や特集でも、
私は植松聖死刑囚を追っている。
でも彼は全く悔恨の情など微塵もなく、
「意思疎通がすぐにできない障がい者は必要ない」
「そういう障がい者の家族は疲れて見えて不幸だ」
「家族には申し訳ないと思うが心失者は死んで良かった」
その言葉を接見する誰にでも繰り返している。
極端な優生思想によって、
障がい者をこの社会から間引くことが自分の使命と、
彼がとりつかれた様々ことからこじつけて犯行に至った。
その事実と背景はこれまでも知っていた。

今回目新しかったのは、
彼が容姿にコンプレックスを持っていて、
目と鼻の整形手術をして脱毛をしていたこと。
「パンダの着ぐるみ事件」というトラウマを抱えていたこと。
しかしこれとて、
美しいもの、可愛いものに対するコンプレックスであり、
裏返せば美しいもの、可愛いものがすぐれているという優生思想。

結論として、
この事件の背景やわかったことに、
特に新しいことはなかったように思う。
ただ犯行を詳細に記した冒頭の章で、
余りにも非人道的で勝手で非道な行為の描写は、
植松聖死刑囚が如何に冷静だったかを思い知った。
むしろそこが一番恐ろしかった。

本書の肝はこの事件によって、
日本の障がい者問題に踏み込んだところだろう。
具体的な人物や状態やそれぞれの生き方をあげることで、
今も日本各地で続く健常者と障がい者の分断、
障がい者が普通にいる社会似向けての戦い、
自治体で受け入れ態勢がまるで違うこと、
現実を浮き彫りにしたことだと思う。

私は普通に働いている。
時折精神的に不安定になるが、
それでも通常の意思疎通は普通にできている。
母親も死ぬ直前には正常だったと思えないが、
それでも身体障害者でも頭は動いていた。
だから植松聖死刑囚にとって心失者ではないかも知れない。
でも一つ間違えれば、
植松聖死刑囚障がい者と言うだけで生きる価値を見出さなかっただろう。
もしかしたら私が殺されてもおかしくなかった。
そう考えることが事件以来度々ある。

今社会は何事においても分断されている。
分断しようという力が働いている。
先日もALSの患者に対する嘱託殺人があり、
ここでも命の価値、重み、生きる価値がクローズアップされる。
そしてこれを安楽死、尊厳死という概念に、
安易にすり替えて議論しようとするバカな政治家までいた。
私にもわからないことだらけだが、
ただ一つ言えるのは、
理不尽に人が人の命を奪って良いと言うことは絶対にない、
或いは親だから子だからと言うことで、
生殺与奪の権利までは持たないと言うこと。
更に言うならば、
コミュニケーションが即座に取れないとしても、
或いは一見して意識がない病人だとしても、
相手は何もわからないと言うのは健常者の驕りだと言うこと。

SNSを通じて知り合った友人の長男は障がい者だそうだ。
詳しいことは聞かないが、
それでも「産まれてきてくれてありがとう」と彼が思っていること、
神様は「この家ならばこの子を育てられる」と選んで産まれてきたと思っていること、
その言葉は本当に私の胸を打った。
だとしたら母が障がい者になったことも、
自分が障がい者になったことも意味があるのかも知れない。
私はその言葉からそう思えるようにもなった。

障がい者だと言うだけで地域から追われ、
やまゆり園のような施設に入らざるを得ない場合もある。
或いは両親が老いたことで入所した人もいる。
でも職員たちの言葉を聴いても、
彼らは彼らなりに一生懸命楽しく人生を生きていたのだ。
例え報道は実名を出さなくても、
そこにいたのは記号やアルファベットではない生身の人間。
では連綿と続く健常者と障がい者の分断は、
どれほど変わってきたのか。
それは本書を読んで格闘してきた人たちの記録を感じて欲しい。

この問題に結論はない。
如何なるマスメディア、医者、カウンセラーをしても、
植松聖死刑囚の心の本当のところはわかっていない。
しかし私は今も忘れない。
車椅子の母親を連れて外を歩くとき、
手を貸してくれる人は殆どいなかった。
リウマチで変形した母親の手を見ながら、
汚らわしいものをみるかのように避けて通った人、
私がうつ病に罹患したと言った途端に離れた友人だった人。
この分断は根深いものがあり、
こと日本では偏見と共に差別が存在する。
でもこの本の中には融合のヒントがある。
水兵目線で健常者と障がい者が交わることができれば、
それが理想ではあるが道は遠い。
だからこそ私はまたこの事件を追っていくだろう。

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